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真田丸 ネタバレ 42話 幸村の「 味方」が大集結!これはもう見逃せません! [真田丸]


幸村の「味方」が大集結!これはもう見逃せません!















真田丸 信繁入城.jpg
引用:Yahoo!検索








見事に入城を果たした幸村ですが、


これからその英知を存分に発揮し


戦ってくれることでしょう。


楽しみでワクワクしてきますね。



今回はタイトルにもある「味方」として


大坂に入城した猛将たちをご紹介し


ちょっとだけ、ネタバレもご用意させて頂きました。




























大坂牢人五人衆と呼ばれる武将達です。






後藤又兵衛(後藤基次)


後藤又兵衛.jpg




後藤又兵衛は、もとは黒田如水(官兵衛)に仕えていました。

講談などでも有名な、槍の名手として知られております。

また、軍略についても徳川家康からも讃えられています。


ですが、二代目黒田家当主、黒田長政とはどうにも馬が合わず仲が悪かようで、

大喧嘩の末に主家である黒田家を出奔してしまいます。


その後、黒田長政から奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)という再就職禁止命令を出され、

引く手あまたな武将であるにもかかわらず、行き場を失い浪々の身となってしまいます。

そこへ豊臣家が大坂で浪人を募りだした折には真っ先に名乗り出て入城しております。


大坂夏の陣では先鋒として二千八百の兵を率い、

徳川軍先鋒、奥田忠次らを討ち取りながら孤軍でおよそ八時間も奮戦し、

その勇猛果敢さは敵味方から賞賛されたほどでした。


小松山にて奮戦の末に討ち死にしたとされていますが、

全国各地に又兵衛の生存説が伝えられています。











毛利勝永



sandamaru.jpg
引用:Yahoo!検索



毛利勝永は中国地方の雄、毛利氏の血縁関係はありません。

出自は尾張の出で、豊前小倉六万石を拝領する毛利勝信の子だそうです。


関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗軍の将となった勝永は父と共に改易の憂き目に合い、

身柄を加藤清正、次いで山内一豊に預けられる事となります。

大阪の役が勃発すると勝永は、主君・山内一豊の土佐を脱出して単身、大坂に上ります。



勝永の采配振りは攻めるも退くも賞賛されております。

特筆すべきは大坂夏の陣では天王寺口の戦いにて

兵四千名を率い徳川家康本隊に正面から突撃。


瞬く間に本多忠朝、小笠原秀政といった譜代衆の首を取り

遂に家康本陣を脅かし家康を数里に亘って追い回す活躍を見せます。


しかし幸村が戦死すると戦線が崩れ敵兵が勝永の隊に集中し、

藤堂高虎隊を打ち破って井伊直孝、細川忠興らの隊を突破したものの

勝永は大坂城に撤退する事となります。


後は炎上する大坂城で豊臣秀頼の介錯を仕り、

息子である毛利勝家とともに自身も自害したと伝わっております。













長宗我部盛親


ちょうそかべもりちか.jpg
引用:Yahoo!検索





長宗我部盛親は、四国の覇者として知られる長宗我部元親の四男にあたります。


関ヶ原の戦いでは東軍に付こうと徳川家康に密書を送っていましたが、

西軍の長束正家に阻まれて連絡を取る事が出来ず、

やむを得ず、西軍から本戦に参加しする羽目になってしまいました。


また吉川広家が内応して、毛利秀元を連絡、遠望の利かない南宮山山頂に押し込め

本戦不参加の戦術的背任を決め込んだ為に、

更に後方に陣取っといた盛親は状況が掴めないまま進軍する事も出来ず、

合戦に参加することもできず、敗軍の将となってしまいます。


土佐に帰国して懇意であった井伊直政を通じて謝罪を試みますが、

父である長宗我部元親が強引に盛親を跡目にしてしまった火種もとで、

燻っていた家中にて紆余曲折の末、兄である津野親忠を殺害してしまい、

このことが家康の怒りを買って改易されてしました。


大坂の役が始まるとすぐさま牢人として参戦します。

大坂冬の陣では幸村と共に真田丸の戦いで徳川軍に大打撃を与え、

大坂夏の陣では八尾・若江の戦いで藤堂高虎隊を破っています。


大坂城が落城すると再起を図って逃亡しますが、

潜伏していた所を捕らえられ、五条河原にて斬首されてしまいました。














明石全登


明石てるずみ.jpg
引用:Yahoo!検索





明石全登は、宇喜多秀家の重臣で敬虔ななキリシタン武将として知られております。


関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の八千名を率いて先鋒を務め、

福島正則らを相手に善戦したと伝わっております。


西軍が敗れ、宇喜多秀家が改易されて流刑に処されると、

同じくキリシタン大名であり母が明石一族である黒田官兵衛に庇護されました。


官兵衛死後は黒田長政がキリスト教を禁教とした為、

柳川藩の田中忠政を頼り、難を逃れております。


大坂の役が勃発すると牢人として参戦し、入城しております。

大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで別働隊として采配を振るうも、


幸村が、安居天神で討ち取られ真田隊が壊乱した際に毛利勝永隊も撤退すると、

全登は松平忠直勢らに突撃し、その後行方が分からなくなっております。















この方の出演も決定しました!





武田幸三さんは、大野治房を演じられるそうですね。

















42話「味方」のネタバレです。










九度山脱出に成功し、大坂入城を果たした幸村は、


城内で久しぶりに茶々との再会を果たすのでした。



一方、家康は、幸村が大坂方に加わったことを知り


かつてない大きな恐れを抱き、大坂への出陣を急がせます。



大坂城に集まった牢人たちの中には、


後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登らが顔を揃えていました。



豊臣秀頼は、幸村に総大将になってもらいたいと願っていましたが、


又兵衛や勝永らは激しく異議を唱えます。


そこで、幸村は一つの策を提案するのですが、その一計とは・・・。



















以上、42話のネタバレと幸村の「見方」が大集結!ついて、取り上げさせて頂きました。














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今回もご覧頂き、ありがとうございました。






真田丸 視聴率 41話 凛々しい幸村に大変な盛り上がり! [真田丸]



凛々しい幸村に大変な盛り上がりの真田丸






真田丸の41話が放送され


大変な盛り上がりを見せています。


中でも、この変装のシーンは大笑いでした。


茶目っ気たっぷりの幸村がそこにいました。



幸村変装.jpg
引用:Yahoo!検索


大坂に入城する時の幸村のエピソードが


そのまま語られていて


微笑ましかったですね。


三谷幸喜さんもそこを意識して書かれたのでしょうかね。









ところが入城を果たすと正装し


見違えるような凛々しいな姿に!


このギャップのある展開を


どなたも望んだのではないでしょうか。




1幸村.jpg
引用:Yahoo!検索




これには、城中にいた人々もビックリ!


してやったり!と思ったことでしょう。


素晴らしい演出です。


見ていてスカッとしました。







そして秀頼との再会を果たしましたね。


幸村対面.jpg
引用:Yahoo!検索



これには拍手喝采でした。


幸村は早速に堺の兵糧を抑えることを言上し、


秀頼も喜んでその事を快諾します。


そばで見ていた大野修理は嫉妬していたようでしたが・・・。












真田丸 視聴率 41話、絶好調です!








これから、いよいよ大坂の陣が始まるとの事で


皆さんの期待も大きく膨らんでいる事の象徴ですね。


次回以降の放送が早くも待ち遠しくてなりませんね。


以上真田丸 視聴率 41話について、お伝えさせて頂きました。













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今回もご覧頂き、ありがとうございました。








大河ドラマ真田丸キャスト、石合十蔵役には、個性派俳優の加藤諒さんに決定! [真田丸]

石合十蔵役には、あの加藤諒さんに決定!









加藤諒.jpg
引用:Yahoo!検索








石合十蔵といえば、信繁の長女「すえ」と夫婦になる間柄です。


その重要な役回りを加藤諒さんが演じることになりました。















加藤さんといえば、個性的な俳優さんとして


いつも視聴者の皆さんを楽しませてくれておりますね。


今回はそんな加藤さんについて、調べてみました。








こんなにぶっ飛びの個性派俳優。加藤諒さん。




加藤さんといえば、まず特徴的なのがあのまゆげですね。


あの太いインパクトのあるまゆげは一度見たら忘れられません。




2加藤諒.jpg
引用:Yahoo!検索


当初、つけまゆげとの噂もありましたが、


どうやらホンモノのようですね。


それにしてもインパクトがありますよね。





2003年には連続テレビ小説『こころ』を始め、


ドラマ、映画、舞台、CMなど、幅広く活躍しているようです


結構実力派の俳優さんでもあるんですよね。






私はどうにもこのアニメキャラクターと


かぶってしまい、頭から離れません。



お坊ちゃま君.jpg
引用:Yahoo!検索



おばっちゃまくんです。


加藤さんをテレビで見る度におぼっちゃまくんが


頭をよぎって仕方がないのです。













加藤諒さんの演技やバラエティーでの活躍で、虜になっている人は結構多い。















































皆さん、加藤さんお個性的な面白さに


相当、もっていかれちゃっているみたいですね。













そんな加藤さんですが、カツラなんです!




なぜか同じ髪型のカツラを被っているという事実に衝撃です!






カツラをとっても髪型が変わらない・・・。



かつら加藤諒.jpg
引用:Yahoo!検索





カツラを着用する意味がない気がしますが…。





これにはご本人なりの理由があったそうで



連続テレビ小説の『とと姉ちゃん』に出演するために



役作りの為に坊主頭にしたのだという事です。



でも坊主頭もなかなか似合っていると思います。



katou bouzu.jpg
引用:Yahoo!検索













さらに加藤さんの私生活はかなり夜行性だそうです!





深夜の自宅で、夜な夜なホラー映画鑑賞を行い、


お気に入りのきゃりーぱみゅぱみゅさんのダンスを踊りまくり


一夜を過ごしているそうですよ。











加藤さんは夜になるとこうしてテンションを上げて


毎夜過ごしているそうですよ。















そんな加藤さんですが真田丸ではこうなります。





katou sanadamaru.jpg
引用:Yahoo!検索









普段の個性的な演技と、


真田丸での演技のギャップに


驚かされてしまうかもしれませんね。



加藤さんの登場が、待ち遠しい限りです。









以上、個性派俳優の加藤諒さんについてアップさせて頂きました。

















今回もご覧頂き、ありがとうございました。






















真田丸 感想がとんでもない事になっている!ネタバレ注意! [真田丸]









真田丸 感想がとんでもない事になっている!




真田丸 信繁ポスター.jpg
引用:Yahoo!検索






皆さんの真田丸に対する感想がアツいです!


こんなにも「真田丸愛」たっぷり


今回は皆さんの感想をまとめてみました。





※この皆さんの感想にはネタバレも含みます。ご覧になりたくない方は注意してください!

























































































投稿者:noh*****さん投稿日時:2016/10/11 12:55.

史実には諸説あり、詳しくない私が史実云々を言うのは差し控えてきましたけど、
NHK「その時歴史が動いた」で語られた 自分に大きな期待をされたことに奮起した信繁!これが、戦国武将である彼の大きな動機として府に落ちました。

それこそ、きりのシーンをバッサリなくして、回想シーンだけのほうが絶対よかったと思います。なので、以前のように、きりは脳内消去して視聴します(笑)

真田丸は、どうしょうもなく受け入れられないシーン(殆どがきり)があるにも関わらず、俳優さんたちの名演と武将の魅力的な描き方がワクワクするので、ストレスを感じることはあっても基本的には楽しみに視聴してました。

大阪の陣を山場にする主人公なら、ヒロインは春にしておくか、女性の影が薄いドラマにしていたら、本当に有り難かったなぁ、とつくづく思います。今さら言ったところでしょうがないですが。


















投稿者:iri*****さん投稿日時:2016/10/11 12:25.

そうあれは「黄昏」の回だった。
信繁が春に曰く、
「わしのようになるな・・(お家の為に人の道を捨て、己れの信念を曲げた)、だからそうならないよう、心がけて来た。秀吉様にお仕えした以上、豊臣家に背くことは義に背くこと!」

今や幸村にとっての義とは、明確である。
此度きりに責め立てられた時、
「お前が言ったことくらいは、とっくに自分に問いかけておるわ!」
と、その胸中を明かしている。
ではなぜ、片桐にあれ程懇願されても義を貫く行動に踏み出さないか?
「黄昏」の回より続けて、
「息が出来ぬほど苦しい思いをしている。義を貫くとはこれほど厳しいものなのか!」
である。

きりほどエッジの効いた言の刃でえぐられ、心の壁をぶちあけられなければ、安住の地に浸っており、その苦しみに立ち向かい、己が運命、その本懐を覚醒出来なかったのかもしれない。
そもそも幸村は片桐に述べた三つの言い分で、己が本心すら騙していたのだから。。。

しかし、いよいよ「戦国ウォーズ 幸村の覚醒」が始まろうとしているのだ!
遅いも早いもない! 出航!真田丸のサントラが心に響く!




















投稿者:wat*****さん投稿日時:2016/10/11 11:51.

佐助に情報収集させてなかったのかという点は。
流罪になって数年は、むしろ積極的にしていたと思います。
昌幸も当初「家康が征夷大将軍になった」「今度は秀忠が」と、積極的にニュースを聞いては、「これで赦免されるかも」と期待に胸を膨らませてましたね。
しかしそのどちらもぬか喜びに終わり…恐らくその後もそういうふうに、豊臣や徳川の動きと自分達を関連付けて、今後を予測したことは何度も合ったのではないでしょうか。
しかし、自分達の生活は何も変わらなかった。
10年間、何一つ。
10年は長いです。聞いても何の役に立たない、むしろ虚しく望郷の念が徒に募るばかりの中央のニュースに、そんなに積極的になれないのは心情としてよくわかります。
















昨夜「前回は白眉、今回は「あれれ?」」という題名で四連投もした者です。

大前提としては、信繁は大坂に行かねばならないわけです。
問題は、九度山での「貧しいながらも楽しい我が家」を捨てても大坂に行く動機の描き方です。
きりは、徐々にこのドラマでの中立的なポジションへと変貌してきていたのに、またも自己中キャラに逆戻り。
「私が大好きな源次郎様」に戻ってくれなきゃイヤだとは、あんた何様か?です。そこには春も子供達も考慮されていない。自称「菩薩の心」が、脚本中では今側室でさえないのに突然信繁の一番の理解者気取り。春たちへの遠慮があって然るべきでは? 春には「源次郎様はあなたが一番」と知ったようなクチをきいておきながら。

そして、他の方もおっしゃるように、この10年で、任務が欲しくてウズウズしていた佐助に各地の様子を探らせなかったのか? 且元から顛末を聞かされるまで、情勢がここまでこじれている事すら知らなかった浦島だ。
色々知った上で、悩んだ末に「武将」としての道を取るとして家族に打ち明けるなら分かるが、背中を押してくれたのが、きりの暴言とは、何ともトホホだ。
















投稿者:sor*****さん投稿日時:2016/10/11 11:24.

戦国時代の武士であれば
足軽は侍大将を目指し、侍大将は一国一城の主を目指し、
一国一城の主は天下を目指すのが普通であり、武士の本懐だったのではないでしょうか?

まちがっても、「戦争反対」「平和が一番」「今の生活で満足」などと
家臣を引き連れて、デモをするような武将はいなかったと思います。




















投稿者:shi*****さん投稿日時:2016/10/11 10:56.

家康には「どうしても豊臣家を潰したいという怨念」はなかったのでは

あの時代は誰かが天下の覇者になる
自分にその順番が回ってきたと思っただけだろう

家康もかつては秀吉に臣下の礼を取った
秀吉に従わなければいけない義務はないが それでも下についた
豊臣家も巨大すぎる大阪城から出て少し小さな国の大名になり
淀の方が人質になれば万事丸く収まって滅びることはなかっただろう

真田丸の女性たちはみな人質になりたがらない
それは自然な情だと思う
本心はみなそうだったと思う
史実でも淀の方は人質になるのをいやがったらしいし
でもドラマ「関ヶ原」で
「私が人質になれば済むなら私は行きましょう
(前田家を守るためならそれぐらいのことはする)
この前田家を作ったのは死んだ利家と私だから」
と男性陣の前で言い放った芳春院(まつ)はカッコよかった

家康に怨念があったというよりも
豊臣家が華麗なままで滅びたかったように思えてしまう
滅びないで済む方法は本当ならいくつもあったのだから

















投稿者:kat*****さん投稿日時:2016/10/11 10:42.

迷うのはいいが
結局は父の遺言の呪縛から逃れられない

命懸けで命乞いをしてくれた、
長年仕送りを続けてくれた
兄…
そこには思いは及ばなかったようで
彼がどんな立場になるかまでは
















六文銭.jpg
引用:Yahoo!検索














投稿者:hit*****さん投稿日時:2016/10/11 9:59.

流れはそうなんでしょうが、どうにも「いただけない感」を感じましたね。何がいけないのか。きりの言葉を起点に決意、という流れにがっくししてしまい、大助とのやりとりや、過去の名将の走馬灯も、演出ほどには感動なく・・・、演技?やっぱり脚本でしょうね。






























投稿者:noh*****さん投稿日時:2016/10/11 9:47.

きりの長セリフを受け入れてしまった信繁によって、視聴者が見てきた信繁のすべて否定されてしまった感があります。大阪の章を長くした理由は、最終章に向けての伏線とばかり思ってました。
秀吉との思い出や三成との思い出、さらに、秀吉の重臣大谷の娘を妻としていることも、武将の行動動機として描ける部分はいくらでもあった気がするのです。
さらに言えば、父昌幸が無念の死を迎えたのだから、そこに繋げた展開にもできたはず。
だいたい、きりは視聴者よりも信繁の活躍を殆ど知らないはず。景勝や秀吉、三成との交流を目の当たりにしているのは、視聴者です。
知ったかぶりして話すきりが不快でしょうがなく、それを信繁が受け入れてしまうことで、唖然としてしまいました。






















投稿者:lap*****さん投稿日時:2016/10/11 8:05.

本能寺の変で倒れた信長の一生を振り返り、景勝が言った「死にざまは己れの生き方を映す鏡」という言葉。あの時に、信長と対極な信繁の最後が浮かんで、これは信繁に大きな影響を与えた言葉になる、と思った。

人生の究極で、信繁の背中を押して、信念を固めさせるという、絶妙タイミングでの回想……上手いなぁ、と思った。

自分の意志とは無関係に、家臣に謀反されて死を遂げる信長の無念。
一粒だねの秀頼の案じて、周囲のあらゆる者へ行く末を懇願する秀吉の悲哀。
天下泰平の大義名分とは逆に、何としても豊臣家を潰そうとする家康の老醜と怨念。

その英雄たちのはなばなしい一生は、最後の「死にざま」こそ、人それぞれの評価を確定するところが大きいのかもしれない。

大阪の陣で、信繁に死にざまを見つつ、何としても上杉家を守らねばならなかった上杉主従の心中を描くラストの映像に思いを馳せている。



















投稿者:umi*****さん投稿日時:2016/10/11 7:56.

家康さんはずる賢い。(>_<)

豊臣家を滅ぼすために、なんやかんやと
いいがかりをつけ、結局、豊臣側の行動が家康を怒らせた!と、戦いの火種を豊臣側に仕掛ける。

戦いの火種は家康さんの心の中にあるのに。
それを豊臣側になすりつけて!

豊臣秀頼の凛々しい姿に、これはマズイ、とビビったのかな。

正々堂々と豊臣を滅ぼす、と言えば良いのに。
でも、そうしたら何か不都合が起こるのかを見越してたのかな?

策士家!弱い者を利用して。
キー(>_<)!!
















投稿者:fum*****さん投稿日時:2016/10/11 7:55.

考えてみれば、信繁が「何も成していない」のは、仕方ないんですよね。
私自身、つい、兄信之と比べてしまうのですが、
そもそも、信繁には、「何かを成す」ように動くことは、求められていなかったのですから。
いや、「何かを成して」はいけなかったのです。
跡取りである兄を立て、兄の手足となって働く将来が決められていたのです。
1歳しか違わないのに、国衆の会議にも入れてもらえず、かやの外。
信之の方が、そう言って、すねていましたが、実は違っていました。
信繁は、あちらこちら行かせてもらえて、一見、自由なようですが、
人質要員であり、将来は「叔父信尹」になるべく仕込まれていたのですよね。
いつ殺されても仕方ない立場でした。
兄の影となるために、自己主張や、自分の意志で何かをしようなどは、許されなかった。
信尹が戦では名を残していないように。
兄と離れ、影となって真田家を守るという役目もなくなり、考え方が変わってきたのかもしれません
















投稿者:hak*****さん投稿日時:2016/10/11 7:00.

信繁は、昌幸と今後の徳川と豊臣がどうなるかをじっくり語り合うべきだったし
佐助には世の中の情勢を探らせておくべきだった

それをせず親父はギャグに走り、佐助はきりに惚れた腑抜けになり、すっかり平和を満喫する信繁の尻を叩くきりという構図に…

きりを持ち上げるためにこんな間抜けな展開になってしまった…





















投稿者:lov*****さん投稿日時:2016/10/11 3:19.

いくら昌幸が遺言したとは言え、何も西洋の大軍団が日本を侵略して来たというのではあるまいし、家族を犠牲にしてまで今の貧しいながらもほのぼのとした生活を捨ててまで大坂に行く価値があるのか?

以上は、「英雄真田幸村」の誕生を否定してしまう感想だが、今回の「幸村」については、どうも史実での「大金を積まれた事も大坂参陣の大きなモチベーションの一つ」というのを伏せるためのこじ付け的な回に思えた。

それに、走馬灯のような回想シーンも、皆敗れ去った人々だ。家族以外では、政宗だけが不本意ながらも長いものに巻かれてでも大大名としての命脈を保っただけだ。(景勝は直江状で家康にタイマンを張って領地を四分の一に減らされて尻すぼみ。)
そういう敗者らが担いでいた豊臣政権が家康・秀忠より著しく劣っていた事を示唆するシーンは一つもない今、これでは幸村はただの「我が儘」だ。

















六文銭.jpg
引用:Yahoo!検索




















投稿者:lov*****さん投稿日時:2016/10/11 3:09.

せめて、「あなたの人生なのだからあなたで決めればいい。しかし、その結果何が起ころうとも、それはあなたの責任だという事は忘れないでね」と、信繁にとことん自分と向き合うきっかけを与える脚本ではだめだったのか?

次に信繁=幸村自身。
人間、確かに自分や自分の家族を犠牲にしなければいけない大仕事というのはあるとは思う。大義に殉ずるのも美しいと思う。
しかし、徳川が今や天下をほぼ手中に入れて、豊臣政権時代より何か悪化したのか? (源次郎は内情をよく知らないだろうが)茶々や大蔵卿局が牛耳る豊臣家、しかも片桐且元が失脚していよいよ古参の人材が払底した豊臣家が、そこまで義理立てするほどの「価値」があるのか? 今の豊臣家は、単に当主が秀吉の子(だとされている)秀頼であるだけで、かつて信繁に大いに影響を及ぼした治部も刑部もいない、そして豊臣家の親類筋の加藤も福島もいないのだ。言わば別物なのだ。















投稿者:sal*****さん投稿日時:2016/10/11 3:01.

戦国武将の勇敢な凛々しいイメージが、崩れ去っていく。遠藤さんの上杉景勝は、無口を通り越して、小心者だし。みんな、なんか女々しい。最初は、女性陣が鬱陶しかったけど、今は、女性達に転がされている戦国武将達の様にしか見えない。ラストスパートで、イメージ回復お願いします。





















投稿者:lov*****さん投稿日時:2016/10/11 2:59.

あの「犬伏」での信之(信幸)のプランで、信繁も見事に働いたではないか。
氏政に降伏勧告して成功したのは確かに「ナントカ官兵衛様」だ。しかし、複数のルートで勧告をしたのが無駄だったと言い切れるのか? 処刑されていたかもしれない降伏勧告の密使役を果たした源次郎をきりはケチを付けるのか? 幼馴染であるきりがズケズケと言うのは構わない。しかし、きりは信繁の綱渡りの人生の何を見て来たのだ? 小田原での決死の勧告や、上田合戦での死闘を目の当たりにでもしたのか? 癇癪持ちの秀吉の馬廻り衆として綱渡りの城勤めだった時の何を知っているのだ?
それに、信繁の願望を焚き付けて大坂に行かせることは、つまり信繁一家が散り散りになる事を意味しているのだが、きりはそこまで責任が取れるのか? 信繁は独り身の流人ではないのだ。きりの父内記や佐助は喜ぶだろうが、じゃあ、春や子供らは?(大助は嫡男だから腹を括れるだろうが。)




















投稿者:lov*****さん投稿日時:2016/10/11 2:57.

前回の「歳月」は、私は大いに堪能した。しかし今回の「幸村」は、きりの唐突な信繁への焚き付け方が腑に落ちなかった。ここのところのきりが、一番の常識人っぽくもあったので。史実はさておき、「脚本」としてである。
「私が好きだった源次郎様はどこに行ったの?」とは、自分の理想像から外れた源次郎ならダメなのか? 信繁の人生は、信繁自身が苦悩し、煩悶して決める事では? このドラマでは現時点では側室でさえないきりが、妻の春までさしおいて僭越では?
「あなたは何を残したの? 何もしていないでしょ?」とは、じゃあ、人は誰でも、歴史に名を刻むような大仕事をしないと失格なのか? 圧倒的多数の庶民はただ生きて、ただ死んでいくだけなのに、それはダメなのか? 信繁は二度の上田合戦でも奮闘したではないか?
しかも、「沼田は結局北条に取られたでしょ?」って…結果論から言えば沼田をこの時点で領有しているのは信之だから結果オーライでは? しかも信之は父昌幸の旧領も継承出来たのだ。




















投稿者:san*****さん投稿日時:2016/10/11 1:43.

残り三ヶ月を切ったというのに、主人公信繁(幸村)に共感した場面が
一つとしてないっ!!←言い切ってしまう。
きりちゃんにだって声援を送れるようになったのに、
堺雅人さんは好きなはずなのに・・・。
しかしながら、ドラマとしては毎週楽しんでいる。
脚本や演出や役者が、視聴者のエモーションに訴えるよりも
見せ方に趣向を凝らしているからだろうと思っていたが、
みんなの感想を読んでいるとそうでもないらしい。
おたかさんの再登場に関する感動的な感想を拝見し、
自分の鑑賞力を反省し、再見してみた。
・・・が、やはり、ヤンキーまがいの帰国子女にしか思えなかった。
私も、もっともっと真田丸を楽しみたいのだが。(;´д`)


















投稿者:jjg*****さん投稿日時:2016/10/11 1:01.

さほど豊臣への義理も感じておらず、真田の武勇を後世に残したいとの情熱も無く、家康を討ち取りたいとの執念も無く、三成の事など すっかり忘れて平穏に暮らしている信繁。
事実、本人も最近の世情にも疎いとの事で 佐助を用いての情報収集もしていなかったと・・・
そんな風だから、片桐且元に請われても、「今更 そんな事言われても・・」てな雰囲気で即座にお断り。
これまで描かれていたキャラ設定なら、それが一番自然な成り行き。
まぁ それじゃ ドラマにならないので何が何でも大阪に行かせる為に 悪名高き"きり"の投入。
今のささやかな幸せな暮らしを 既に受け入れている信繁に対し、「自分が好きな信繁はこうだ!」などと勝手な思い入れで説教を垂れ、「お前は何事も成していない!」と罵倒までして 信繁を死地に追いやる為に 背中を強く押す。たまったものでは無いのは正妻の春と子供達、馬鹿きりがいなけりゃ 家族の平穏な暮らしが続いていたであろうに 息子まで死に追いやられる事になる。最後の最後まで、本当に迷惑な存在としか思えないであろう。
















投稿者:san*****さん投稿日時:2016/10/11 0:50.

無能かもしれないが、真実一路、忠義者の且元がいじらしくて哀しい。
茶々様も大蔵卿局も家康の手のひらで転がされているくせに、
賢しげに且元を嗤いなさんな。(`-´メ)
秀頼は凛々しく育ったけれど、所詮、世間知らずのお坊ちゃまなのね。
女たちや大野治長に同調している彼を見ていると、つくづく将来が案じられるわ。
且元、豊臣家にそんなに忠義立てしなくてもいいのよ。
あなた、おねしょなんかしてませんから~。
あれは、太閤殿下の粗相を押し付けられただけですから~(;_;)
信繁を信頼しているみたいだけれど、こいつ、何も成し得なかったくせに
親譲りの卑怯者だよ!
且元、徳川についてしまえば良いのに!!
・・・と腹立たしい回でした。














六文銭.jpg
引用:Yahoo!検索















投稿者:jki*****さん投稿日時:2016/10/11 0:44.

何とも切なくなります。
里芋を“全て”収穫するよう父から命じられ戸惑う大助の「全てですか?」の問いに
「全てだ!」と自信に満ちたような表情で返答した信繁がカッコ良過ぎ!!
その言葉に九度山を去る“父の決意”を察したかのように瞳を輝かせた大助がまた可愛い!!
「幸村」の命名を大助にくじを引かせて決めたシーンも良かった。

(これから大阪城に入ったら親子の会話も少なくなってしまうのでしょうね…寂しいなぁ)

でもね…きりにハッパをかけられて信繁が豊臣への加勢を決断したみたいな話は、
きりが“信繁の迷いを見抜き大阪行きを促す”ヒロインとしての見せ場のシーンだったのだろうけど…
「何事も為していない」とか「何とか官兵衛さんのお手柄ですから」なんて上から目線の
台詞はどうも苦手!梅ちゃんとの祝言の時の「貴方たちこれでいいの?」を想い出して
きりって、40代になっても変わってなかったのかな?!
もう少し冷静に、穏やかに信繁がどう決断するかを見守ったほうが…
きりの立場では素敵だったと思いました。。。
















投稿者:lap*****さん投稿日時:2016/10/11 0:14.

幸村の大阪の陣での武勇伝は、いうまでもないが、嫡男大助もまた秀頼に殉じた忠臣として、胸を熱くする話しが伝わる。あまりにも若すぎての殉死は痛ましくもあるが、大助のような同年代の忠臣に守られて、秀頼は心強くもあり、ずいぶん慰められたのではなかったか。

大助は生まれたときから、九度山村という限られた場所で、限られた生活を余儀なくされてきたので、武家の暮らしというのは、なかなか理解しがたかったはずだ。
そうした育ちにも関わらず、わずか15才で、世に誉れ高い青年として伝えられるように武士として成長したのは、守役の高梨内記の薫陶のたまものだろう。

真田家古参の忠臣から「若殿」とよばれ、薫陶を受けたればこそであった、と前回からのストーリーを見て、初めて納得できた。大助は、内記によって武家の嫡男としてのアイデンティティを確立できた。高梨内記が、昌幸死後も九度山に残り、大阪の陣で殉じたのも、守役のとしての勤めを果たしたのだと思える。

大助のような優秀な子供を連れて、大阪城に入ることで、信繁の評価もおのずと上がるのではないか。

















投稿者:cmt*****さん投稿日時:2016/10/11 0:03.

真田幸下、幸沼、幸田…
大助くん、「村」の字を引き当ててくれてよかった(笑)



















投稿者:bur*****さん投稿日時:2016/10/11 0:02.

左衛門佐という官位をもらったという事実だけでも,信繁は有能だったんだなと思う.使えない小姓では官位はいただけないだろう.全て補佐役なので,信繁の名前が実績として残っていないのが残念だが,官位授与は信繁の有能さの唯一無二の証左だろう.
今までは主役ではなく二番手だったが,今度は「将」としての活躍を期待されている.自信がないのも当然.今まで自分で考えて行動することがなかったんだから.
そこを敢えてきりが,舌鋒鋭く切り込み,信繁に自覚させ,覚悟させた.
ここで己を知り,嫌という程知っている家康を相手にするからこそ,負ける気がしないという自信に繋がる.きりに背中を押されて,大阪へ飛翔する幸村の活躍が楽しみだ.















投稿者:miy*****さん投稿日時:2016/10/10 22:46.

家康の本陣に幸村が迫り、家康を自害の寸前にまで追い込んだとされる大阪夏の陣。
実は、後藤の槍に刺されたとか、真田幸村が最新式の馬上筒(8発の弾丸を10秒おきに発射出来たらしい)から放った弾丸によって、家康が戦死していたと言う説もあるそうな。
大河ドラマでそこまでやったら、伝説になるだろうにね。
















投稿者:cbf*****さん投稿日時:2016/10/10 22:34.

上記の台詞は、坂の上の雲、秋山好古に言わせた司馬さんの名言であるが、今回のキリの後押しはこの名言を彷彿させた。
が、違うなーと思う。
こういう刹那的考え方は、松蔭の幕末以後であり、戦国時代にこのような考え方はしなかったと思われる。
参戦するや否やの判断基準はあくまで、勝てるか、の一文字だと思われる。したがつて参戦への関心事は兵力であり財力であつたろうと思われる。
三成の憤死の描き方も大いに不満であった。あれだけ冷徹に計算できる男が、なんの計算も計略もなく義憤に駆られてただ立ち上がった超小物に描かれた。
違うのではないかと思う。
















投稿者:cbf*****さん投稿日時:2016/10/10 22:34.

上記の台詞は、坂の上の雲、秋山好古に言わせた司馬さんの名言であるが、今回のキリの後押しはこの名言を彷彿させた。
が、違うなーと思う。
こういう刹那的考え方は、松蔭の幕末以後であり、戦国時代にこのような考え方はしなかったと思われる。
参戦するや否やの判断基準はあくまで、勝てるか、の一文字だと思われる。したがつて参戦への関心事は兵力であり財力であつたろうと思われる。
三成の憤死の描き方も大いに不満であった。あれだけ冷徹に計算できる男が、なんの計算も計略もなく義憤に駆られてただ立ち上がった超小物に描かれた。
違うのではないかと思う。
















投稿者:hiy*****さん投稿日時:2016/10/10 22:23.

先生、こんばんわ。
うちのおじいちゃんも先生の大ファンです。
真田丸って最高!
これからもよろしくね。

















六文銭.jpg
引用:Yahoo!検索













投稿者:bel*****さん投稿日時:2016/10/10 22:11.

信繁の書状で有名な、「歯も抜け髭なども黒きは少なく候」が有名だが、これ大坂入城後のものとされる事が多いが、実は「九度山蟄居期」のものであった、「久しくこのようなところに住んでおりますので、どこからも見舞いが来ることはありません」と
続きがあるのだ。
信繁の蟄居期においては、その監視役であった文殊院から、家康の顧問僧金地院崇伝に報告されているが、信繁自身、ある一定の自由が認められていた事や、兄信之の見舞いを信繁自身が謝絶している事などが、明らかになっています。
信繁自身が、九度山蟄居期において、多くの「子」をもうけたことなどを考えれば、兄信之に言った台詞は当然なのかもしれない。
来週この、信繁のフェイクを三谷氏がそれなりに解釈してくれるでしょう…。
真田丸面白い!


















投稿者:pon*****さん投稿日時:2016/10/10 21:40.

アクシデントがあったからね。撮り直しだよ。
この無理やり感は異常だよ。
仕方なかったんだ!ってコミカドのセリフを思い出した。
来週は良い出来を期待したいね!




















投稿者:yos*****さん投稿日時:2016/10/10 21:32.

自分で探し続け、自分で切り拓く、自分だけの道。

その昔、徳川家康が織田家と同盟を結んだのは、どういう意図があったのでしょうか。
とにかく、信長のために、最強といわれた武田信玄の軍団と戦った家康。信長のために、妻子の命を奪った家康。
はたして、家康が天下人になることを決心したのは、いつの頃なのでしょうか。

2016年の終わりが近づき、大河ドラマ『真田丸』も終わりが近づいてきました。つまり、徳川家が日本を制する時代が近づいてきました。

歴史は、肯定することも否定することもなく受け入れるべき。というのが、私のスタイルではあります。わかっているつもりです。
それでも、大河ドラマ『真田丸』、真田幸村の生き様を見届けようと思っています。そう思わせてくれた今回のストーリーでした。

















投稿者:gur*****さん投稿日時:2016/10/10 21:24.

里芋の根本に、明らかにプラスチックのポットか鉢が映っていて残念。美術さん、確認しなかったのかな































投稿者:xsa*****さん投稿日時:2016/10/10 21:13.

>兄の手足となって生きなさいと幼い頃から育てられた

これから大阪側となって徳川方と戦えば、兄信幸の立場は悪くなります。
そのことについて信繁が悩んでいる描写はありませんでしたから、
現時点では信繁は、兄の手足となって生きなければなどとは考えていないでしょう。

信繁は優しいというよりも優柔不断だと思います。














投稿者:pik*****さん投稿日時:2016/10/10 21:10.

真田幸村こと信繁は大坂の陣だけで名を残しえた人物ですからね
軍記物や講談など後世の創作で非常に名は知れ渡ってる半面
史料的な史実ではほぼ謎な人物
このアンバランスさで学者は研究対象にするのを嫌うほどらしいです

真田丸では比較的定番の通説より史実を最近のもの入れて
そっちに重点を置いてここまできてますから
ドラマというとこで主人公の信繁を色々露出させてますが
地味な印象で幸村らしくないと感想欄で言われるくらい
何事か名を残すような働きはドラマ内でも信繁はしてません
左衛門佐という官位をもらったくらいでしょうか

大坂に向かうに際して史料では確認できない幸村を名乗らせたので
ここからは通説もこれまでより多く盛り込むのでは




















投稿者:noh*****さん投稿日時:2016/10/10 20:57.

「祝言」で、身重の梅をわざわざ殺戮現場に連れてきて、「あなた達これでいいの!?」と言うきりのシーンで味わった嫌な感じをまた思い出しました。
彼女は、凄く偉そうで気高い思想を持ってるかのような言動するんですが、恐ろしく差し出がましい上に、
源二郎の妻(しかも妊娠してるのに)を一番傷つけているんです。

今回も、このまま九度山で源二郎親子が幸福に過ごさせないようなことをあえて言うわけです。(勿論、きりが言わなくても史実ですから源二郎は大阪に行くのですが。)
万が一、春が知ったら、きりが背中を押したと知ったら、例え、春も大阪行きに賛成するとしても、本当に本当に嫌でしょうねぇ。

だから、やっぱり、きりという人物は好きになれないし、ある意味恐ろしく感じます。




































投稿者:l24*****さん投稿日時:2016/10/10 20:48.

「何事も為してない」・・・これは耐え難い罵声であるが、三谷さんにそのままお返しする。
それにしても、やってないことをやったことにさせられたあげく、なにもやってないと言われるとは、泉下の信繁が気の毒である。合掌。














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引用Yahoo!検索














投稿者:l24*****さん投稿日時:2016/10/10 20:48.

「何事も為してない」・・・これは耐え難い罵声であるが、三谷さんにそのままお返しする。
それにしても、やってないことをやったことにさせられたあげく、なにもやってないと言われるとは、泉下の信繁が気の毒である。合掌。





















投稿者:mai*****さん投稿日時:2016/10/10 20:40.

最高のナレーションである!
今世紀中にこのような素晴らしい女性は世界にただひとり。



















投稿者:mai*****さん投稿日時:2016/10/10 20:29.

「実の子と実の弟との闘い。信之の目は呪っていた」




















投稿者:hom*****さん投稿日時:2016/10/10 19:52.

回想で、出浦が源次郎に「おぬしは優し過ぎる」と言っていたがその通りだと思う
賢くて優し過ぎるから、人に頼られ、利用され、振り回される
昌幸に利用され、秀吉に利用され、茶々に振り回され、春に振り回され…
今度は大坂の陣に引っ張り出された

真田家のために生きなさい、兄の手足となって生きなさいと幼い頃から育てられた次男坊
自分のことより周りの人のために行動するよう求められた人

なんだか切ない






































投稿者:mat*****さん投稿日時:2016/10/10 19:45.

映画の予告編のような映像。
これまでとは、明らかに何かが違う、そう言う高揚感をあおってくれた。
今までは、迫力ある戦のシーンより、人物像や絡んだ相関図、名将達の知恵比べにスポットを当てていた。
ためて、ためて、今ここに来て見るもののフラストレーションを回収しようと言うのだろうか。
少々長いプロローグにも思えるが、いや、丹念にこの因果を、さだめを描いたからこそクライマックスを味わえるのかもしれない。
つくづく上手い、三谷脚本。
現代的な口調、特に女性の思考や発想、物言いは、時代劇にはそぐわない部分が有るのは否めないが、私には流れも心情もわかりやすい。
そして、今回は名言集かのように、回顧録かのように、時代を生きた武将達やその妻たちの言葉が一気に聞けて場面が蘇りました。
































投稿者:oha*****さん投稿日時:2016/10/10 18:39.

女に尻を叩かれてやっと戦場に行くような人物が「日の本一の兵」になれるものなんでしょうか。

信繁は最近の世の中の情勢を何も知らなかったようでしたが、
信之は簡単に信繁に会いに来て泊まったりしていたし、手紙もやり取りできていたようなので、
その兄から情報を得ることはできたんじゃないかと思います。

強いて聞かず、信之もあえて知らせなかったということなのかもしれませんが、
もし信繁が何らかの理由でそこまで徹底して世捨て人になろうと決めていたのだとしたら、
今回きりに何か言われたぐらいでその決意をまた軽々と翻してしまったわけで、
「意志が弱く流されやすい受け身な人」という人物像はこれまで通りなんだなと思いました。

意志が弱く流されやすい受け身な人は、日の本一の兵になれるものなんでしょうか。













































投稿者:mfg*****さん投稿日時:2016/10/10 18:01.

興味深い、今まであまり知られなかった幸村の命名について、面白い方法で名付けたのには驚くと同時にうまい手段を考えましたね。いよいよ、幸村が表舞台に・・・活躍を期待しています。



































投稿者:yos*****さん投稿日時:2016/10/10 17:43.

決断する前の大いなる迷いの中で、これまで関わってきた人々の言葉を回顧する場面は見事な伏線回収だったと思います。全て良かったのですが、個人的には、叔父・信尹の「儂のようにはなるな」、婆・とりの「人間はみな定めを持って生まれてきている。それに気づくか気づかぬかじゃ」が胸に突き刺さりました。
同時にきりとの場面も凄く良かったです。「やんちゃで賢く明るく、キラキラしていた真田家の次男坊はどこへ行ったの!」は正に殺し文句に聞こえました。何かと批判の多いきりですが、今回は秀逸でした。
里芋の全て引抜は決断の証でしょうし、「幸村」銘々のクジ引きは「?」とも思いましたが、信頼する者への相談や占いに依存するのは現代でもあるし、万事を尽くし運は天に任すと考えれば合点がいきました。それを長男にさせたことの意義が大きいのかも。
いよいよ来週から最終章。終盤は消化試合要素の強かった大河が今から盛り上がるとは十数年ぶり?二十数年ぶり?と考えると嬉しさとワクワク感です。こんな気持ちで大河の終盤を見るのは昭和40年代の「天と地と」「樅の木は残った」以来のような気がします。



































投稿者:mai*****さん投稿日時:2016/10/10 17:16.

名を失念したが俳優が上手く演じておる。
九度山蟄居の弟を思いやるその心は、真田の名を今日まで残す礎となる。
信之を信用に足らぬ者と考える家康に、信之はどう出るか。
お楽しみはこれからだぁ!




































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引用:Yahoo!検索





























投稿者:tor*****さん投稿日時:2016/10/10 16:42.

正直、これまであんまり堺雅人という俳優が好きではなかった。
実際ここまで真田丸をメチャクチャ楽しんできたものの、
堺さんを凄くいいな、とは思わなかった。
秀吉や昌幸など、信繁以外の人物がフューチャーされていたからね。
そちらに自分も感情移入してた。
信繁はあくまで傍観者だったし。

前回あたりから薄々感じていたものの、
今回信繁(=堺雅人)に感情移入してる自分に驚いた。
回想で泣けた。あれもこれも伏線だったのかと。
髭も似合っている。
























投稿者:mas*****さん投稿日時:2016/10/10 16:38.

九度山の信繁は歳を重ねたくましさを感じます。予告で見た、甲冑を身にまとい叫ぶ信繁に、いよいよ真田幸村の見せ場が始まると思うとワクワクして期待しています。
きりは信繁のことをよくわかっており、なくてはならない存在になっていると説得するシーンを見て初めて感じました。
時代劇らしい言葉使いで落ち着いた女性であれば、ここまで視聴者から反感をかうこともなく、一目置かれた役どころになっていたのではと思います。.























































投稿者:yos*****さん投稿日時:2016/10/10 16:35.

ようやく、堺雅人に主役感が出てきた感じ。今まではお父さん、はては兄者にも存在感で負けていたので。
池波の真田に滅茶苦茶はまった若きころがあるので、三谷さんの配役にははまりますが。
きりじゃないけど、今度こそは間違いなくやるのですよね。最高の武将として.....。










































投稿者:kar*****さん投稿日時:2016/10/10 15:30.

「アンタ、まだ何もしてねぇんだけど?」ときりに言われちゃった源次郎…イ、イタイ。
そうだよ!ナントカ官兵衛に負けてんじゃねぇよ!まだこれからだよ!ときりちゃんの言葉に激しく頷く一視聴者の私であった。

めくるめく回想シーンが、これまでの物語の積み重ねをしっかり見せてくれた。
兄上の回想だけ微妙に趣が違うのがまた何とも言えずリアルな気も…(笑)。

幸村の村が九度山村からきてるのって、信繁らしい。それを九度山の生活しか知らない大助が引き当てたというのもまた感慨深い。

清韓(植本潤)と大蔵卿局(峯村リエ)が、イイねえ! 味があるぅ~。





























投稿者:hat*****さん投稿日時:2016/10/10 15:14.

幸村・・いや堺雅人の甲冑姿が似合わないのではないかと思うのだけど、何とかならないかな。
































































投稿者:sor*****さん投稿日時:2016/10/10 15:10.

真田丸の攻防戦。
たのむ~っ!「葵 徳川三代」の関ヶ原並みにカネと人を使って
「坂の上の雲」並みのCGで盛り上げてくれ~。
そ~か~。そのための今までだったのか~と思わせてくれ~。




































投稿者:jjg*****さん投稿日時:2016/10/10 15:08.

信繁か、風光明媚、気候温暖、家族、家来に囲まれて一緒に平穏に過ごす暮らし、家康によって味あわされている"この世の生地獄(笑)を捨てて 大阪に向かう動機の整合性が、まったく成り立たない。
これまで描かれてきた信繁像って
そんなに義理堅いキャラ設定であったか?
真田の武門を この世に残したいと思うようなキャラ設定であったか?
大阪方に着きたいと思う心と、今の生活を棄てる事との間で、それ程、葛藤するような人物には思われない。
むしろ早々に断りを入れているシーンを観て スムーズに受け入れられたわ。
大阪方に行きたいという本心? どこをどう きりが汲み取ったのか さっぱりわからない。
そんな葛藤を抱えるような人物としては、ちっとも描かれてはいなかったのだから









































投稿者:fum*****さん投稿日時:2016/10/10 15:06.

回想シーンに映像では出なかったけれど、きっといましたよ。勝頼様。(・・・と信じたい)
城を落ちる前夜、16、17歳の信繁、信幸兄弟に会いに来たシーン、
思い出しても、辛いです。
10代の若者らしく「やはり一緒に岩櫃へ参りましょう!」と、わざと、元気に言う信繁。
勝頼が去った後、悔しそうに「死んだ人(信玄公)に義理立てして、何になるんだ」と言いました。
まだまだ青いんですよね~。
怖いから逃げる。絶対に助かる道を選ぶ。
子供にとっては、当然の生き方を、必ずしも選択できない苦しさを、平岳大が見事に演じていましたね。
ほんとに見ていて辛かった。
ひとつしか違わないのに、兄信幸の大人な対応も印象的でした。「これもまた、ひとつの生き方」と諭します。
勝頼の死を聞いた時の「おいたわしい」という泣きそうな兄の表情が、実は一番残ってます。
もったいない。1,2話だけなんて、ほんと、もったいない。いい役者さん、多いなあ。


























投稿者:suz*****さん投稿日時:2016/10/10 13:55.

「どうして、その様な小細工をするのです!
なぜ、正々堂々と向き合わないのです!」

この台詞をそっくりそのまま、高畑淳子さんにお返ししたい。




































投稿者:wak*****さん投稿日時:2016/10/10 13:30.

なるんですけど。
こうしてまた、視聴者の期待をあおって自らハードルをあげちゃった!チャレンジャーだわNHKさん。

個人的には、きりちゃんの本領発揮の回で、以前ここで物議をかもした『なんとか官兵衛さま』も出てきて大満足♪でしたが。
ここへ来てみなさんの意見を見ると、たしかに、『その時が来たらここを抜け出して豊臣方につけ』との、昌幸パパの遺言をなんと心得るっ!とのお怒りもごもっとも。なんと回想の一環でしかなかった!

賛否こもごもながら2016年の日本もいよいよ秋らしくなってきて、正直、人生が変わるほとのドラマとは思わないけれど(そんな年でないので)年末に『丸ロス』状態になることが決定的な自分が少し心配になってきた…

































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引用:Yahoo!検索


























投稿者:ten*****さん投稿日時:2016/10/10 13:01.

きりが後押ししたこと。そりゃね、あんたは子供もないし、好き勝手なことが言えるでしょうよ。何も為さなかった自分の夢を信繁に達成してもらいたいでしょうよ。と思った。先週、ちょっぴり見直したのだけど。きりのことは好かないけど、そうじゃなかったとしても、今話のあのシーンはイヤだと思ったと思う。あれは春の役目だ。子を持つということを為し、家を守る役目のある女が言うべきだ。きりがいなくても信繁は決断しただろうし、あのシーンはトレンディドラマっぽくていいのかもしれないけど、浅くてガッカリ。

くじで名前を決めたというのは時代劇っぽくて良かったと思う。古来、くじには神が宿ると思われていて、足利の何代めかの将軍はくじで選ばれたのだと記憶している。
村を候補にするつもりはなかったというのはご愛嬌。初めて幸村と聞いた時、変わってるなあと確かに思った。でもこの名前も後世の幸村人気に一役かってそうなので良かったと思う。
傍観者として描かれてきた信繁。なら、なんでいつまでも許されなかったのだろう…。















投稿者:yam*****さん投稿日時:2016/10/10 12:34.

今回は説明及び復習回でしたね。信繁が九度山にいる間の世の中の動きを見せ、これまでの人々とのつながりを見せ、そして大坂へ向かう決心をする。(ところでなんで信之の回想が「わしは岩櫃城をまかされていっぱいいっぱいなのだ。」なんでしょうもっとかっこいいシーンもいっぱいあるのに。これが三谷流の遊び心なのか。)
これから大坂城の中で信繁はどういう扱いを受けるのでしょう。戦術家ではあるけれども戦略家ではない信繁。片桐さんの時みたいに大坂城の中ではグダグダな争いがおこるのかなあ。
三谷さんはどういう風に見せてくれるのでしょう。
でも大坂方に感情移入すればするほど負けるのは見たくないなあ。昔あった映画みたいに家康の首を取って後の家康は身代わりだったなんて話にはならないですよね。




























投稿者:tet*****さん投稿日時:2016/10/10 12:26.

決断を促す過去の回想に勝頼様を入れて欲しかった。
でも勝頼様は秀頼様と被らせるのかなとも考えて見たり。
初期の数回なのに勝頼様の印象強すぎて。
きりみたいに長い時間かけないと良さのわからない人物もいたりと、本当このドラマ、ハズレ役がいない。



































投稿者:con*****さん投稿日時:2016/10/10 12:18.

堺雅人って、美男子☆.だったンだねぇ---







































投稿者:kpa*****さん投稿日時:2016/10/10 11:17.

真田伊豆守信之、
病気の為大坂の陣には参戦せずに2人の息子達が戦に参加しています、
しかし彼は90歳まで生きて真田の家名を守りました、
真田は明治維新まで大名として生き残り、平成の今に至っています、
凄くないですか?
真田伊豆守信之、
これが犬伏の別れの昌幸の言わば
真田が生き残る為の究極決断だったんですね!



































投稿者:tet*****さん投稿日時:2016/10/10 11:16.

そう、これまでの信繁は傍観者。
実は何も成していない。
きりの台詞によって信繁も視聴者も再確認させられた。
そして最後の晴れ舞台で初めて表舞台に乗り込むんだよね。1年間という長いスパンでこそできた伏線の回収。
家康に二度勝った名将真田昌幸の遺言である豊臣が勝つための秘策の結果は、史実の通り。
そこで信繁改め幸村が自身の策として作り出したものが真田丸。
真田昌幸の息子ではなく幸村が日の本一の兵と言われるが所以の唯一無二の舞台。
楽しみ。



































投稿者:ggt*****さん投稿日時:2016/10/10 11:03.

「なんとかかんべい」の言い方言うなあ。きっちり言うと会話らしくないけど。きりさん ついでに告白。ギュッてされるんじゃないかって 影から はなさんが見てたらどうしようなんて思ってしまいました。
中垂れしないで見ることができる大河です。




























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引用:Yahoo!検索






























投稿者:iri*****さん投稿日時:2016/10/10 10:34.

「遅いも早いもない!己が運命(さだめ)に気づくか気づかぬか!」
信繁の脳裏をかすめたババ様が残したご遺命、確かにあの場にいた真田兄弟は、もはや己が運命の何たるかに気付いている。
真田家存続という実を取り、後に【松代】城にて藩主の信之。
父達の想いを汲み戦国最後にして【末代】まで名を上げる信繁。
その腹と御名を決めるまでの過程は史実に即して、数多の布石が打たれ、真田紐のように綿密に組まれ、最後はきりの決定打が、最も痛いところを突き、完了した。
「父や太閤に振り回され、この世に生きた証を残していない。何もしていない。何の役にも立っていない!」
かつて大河の主人公たる者が、今頃になって、それまでを全否定される、これ程までの罵倒を浴びせられたことがあっただろうか?
私の記憶にさっぱりございませぬ。。。

逆に言えばここまで引っ張った伏線は張りつめられた弓の弦のようなもの!
これからが大河史上、日ノ本一の活躍があるというものであり、幸村という矢が、満を持して、いよいよ満天下に放たれるのだ!

その最終章!
今から血沸き肉踊るというものであるー!!




























投稿者:fum*****さん投稿日時:2016/10/10 10:30.

もし夫が、ある日突然「やっぱり自分の夢を実現したいから、仕事辞める」あるいは、
「会社の不正が許せないから、(解雇されても)告発する」と言ったら。きっと、家族は、大反対しますね。
今回の信繁の決断は、そんな感じです。
畑の貴重な食糧、里芋を、みんな掘り起こせと言う。もう、ここに住むつもりはないのです。
大将になって戦を起こしても、家族はやっていけると思っているのか?路頭に迷うことはないのか?
この時の信繁は、家族のことは頭になかったようです。過去、関わってきた人たちのことは考えましたが。
現代なら、女性も仕事をして、暮らしていくことはできます。でも、あの時代は?
もちろん、女も、いざとなったら命を捨てる覚悟は持っていたでしょうけど、あまりに酷な・・・。
なんて自分勝手な。と腹を立てながらも、でも、と思います。
でも、幸村が、あの赤備えを身に着け、戦場で勇猛果敢に戦うのを、私達は望んでいたんですよね。
悲しいけど、みんなの好きな真田幸村になっていくのを、これからも見ましょう。
実は、美談で片付けられない話なのだと、『真田丸』を見て、初めて、気づきました。
























投稿者:nen*****さん投稿日時:2016/10/10 9:47.

幸村子孫の方の本には、大阪城入城の際に「幸村」を名乗っていた…という系図があると記されていました。お兄さんの信幸さんが→信之さんに改名した事を期に、「幸」を源次郎さんが自分の名に用いたというストーリーを指示したいとも記されてました。「真田丸」でも、そうなれば!と思ってましたが、よりドラマチックになりますね!
また、好きでなかったきりちゃんの言葉にもしびれました。想いは叶わずとも、心に決めた人を一生支えていく…こんな名も無き戦国の女性に思いを馳せてしまいます。

























投稿者:nak*****さん投稿日時:2016/10/10 9:35.

片桐且元は大阪城にいては危険と判断し、城を出た後、家康に会いに行ったのでは、信繁に会いに行くのは不可解と思いました。
もっとも、大阪城が落ちて、秀頼が死んだ後、自刃したと聞いたことがあるので、家康の力で秀頼を助けたいという思いはあったかも知れません。当時の大阪城は近江派の大野治長等が淀や秀頼の周りを固めてしまい、且元にはどうにもならなかったのではと思います。



























投稿者:mor*****さん投稿日時:2016/10/10 9:34.

って感じ。今さらながら官兵衛が懐かしい。
面白い大河を作ってくれよう






























投稿者:nak*****さん投稿日時:2016/10/10 8:44.

いくら「ドラマ」とはいえ、長澤まさみや竹内結子のあの現代語調の言い回しはなんなんだ?主役の堺雅人もしかり。三谷幸喜は時代劇の脚本には向いていない。もう「大河ドラマ」の制作にはかかわらないで欲しい。













































投稿者:sir*****さん投稿日時:2016/10/10 8:35.

きりがここでも大叩きされていた序盤は、もしかしたら長澤さん御自身も彼女の立ち位置を把握するのに大分迷われていた事があったのかもしれません。

公式でも公私に渡り信繁を支えていくパートナーとあったので、いつかは側室になるのだろうかと思っていました。
しかし信繁ときりは幼なじみとか親友とか、恋人、夫婦といった普通のくくりを超越した関係で、いつの間にかお互いになくてはならない存在になっていたのですね。

昨日の長澤さんの迷いの無い演技が清々しく、きりという女性の人生を演じられる楽しさの様なものを私は感じました。
正直これまで苦手な女優さんでしたが、これからその考えは改めなければいけませんね





















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引用:Yahoo!検索























投稿者:sor*****さん投稿日時:2016/10/10 8:34.

きりと信繁のやり取りを見ていて、
おじさんな私は往年の名作「柔道一直線」の
吉沢京子と桜木健一のワンシーンを思い出してしまいました。
そう言えば、「美しい十代」とか
「上をむいて歩こう」とか「いつでも夢を」とか…。
男は、幼馴染のしっかり者の女性にいつも励まされていたように思います。
タメ息がでるくらい、使い古されたパターンでしたが
まぁ~。今回は「よしっ!」としよう。





































投稿者:kpa*****さん投稿日時:2016/10/10 7:52.

「あなたとはまた会えるわ、そして同じ日に死ぬの」
かつてこう予言した悲しい結末がいよいよ迫る最終章、
映画真田十勇士での幸村大介親子の壮絶な討死には涙が溢れました、
大河ドラマ真田丸でも感動のラストを期待したい!
もう「おちゃらけ」はいらない





























投稿者:tkq*****さん投稿日時:2016/10/10 6:44.

「鬱陶しいんだよ!」と信繁に言われながら、キリは大阪城行きを渋る信繁に過去の戦果がほとんどないと詰って戦いに参加するように促しましたね。信繁が大阪城へ行けば戦いで死ぬかもしれない危険があるのに、信繁の性格を知り尽くしている幼馴染のキリだからこそ勇気をもって言えたのでしょう。キリは、信繁(幸村)の生涯を通して彼の人生を左右する重要な役割を担って行くのでしょうね。
































いかかでしたでしょうか。


ゆる~いご意見や、はたまた辛口のご意見もあり、


皆様が毎週の放送を楽しく評価されていることが


何とも頼もしく映りました。



制作者サイドの皆様も、きっとご苦心なされているのかと


皆様の感想を読ませて頂きつつ


感じ入ってしまいました。


これからも真田丸に大いに期待したいと思います。







以上、今回は「真田丸 感想がとんでもない事になっている!ネタバレ注意!」
を取り上げさせて頂きました。


































今回もご覧頂き、ありがとうございました。









真田丸 キャスト 「たか」も気になりますが、この方!塙 団右衛門役小手 伸也(こて しんや)さんにも注目! [真田丸]




新キャスト。この方に注目!







39話では、「たか」がルソンから日本に戻って来ました。


信繁に助けられ、その熱~い抱擁は


話題をよんでいます。







真田丸 たか 39話.jpg
引用:Yahoo!検索










史実では、信繁の子を産み


徳川家の執拗な探索の目をかいくぐり


信繁の子孫を残していく人物です。



真田丸では、そのあたりはどのように描かれるのでしょうか?


「たか」の今後の行く末を見守りつつ


ドラマの展開を楽しめればと思います。















今回は塙 団右衛門役小手 伸也(こて しんや)さんをご紹介致します。














塙 団右衛門とはどのような人物?









伴団衛門.jpg
引用:Yahoo!検索







塙 団右衛門(ばん だんえもん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。

生没年に関しては説が分かれますが、

一説には永禄10年(1567年) - 元和元年4月29日(1615年5月26日)の説が有力視されています。



諱(いみな)は 直之・直次または尚之ともいわれております。

通称は長八、後に団右衛門に改め、一時、出家した際には鉄牛を名乗りました。


後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、

塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名で知られています。




出自に関してはよく分かっておりません。

織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする説もあります。

また遠州横須賀衆と呼ばれている、

浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話や、


はたまた、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、

小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた]という話、


相模の玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫の徒士となったという話もあり、

詳しい出身地や素性も特定するまでには至っておりません。



どのような前歴を持つ人物なのかも特定できてはおりませんが、

猟師より身を起して織田家臣の坂井政尚の家来となり、

戦功をあげて織田信長に士分として取り立てらましたが、


酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、

浪人となって諸国放浪したという話もあれば、

前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあります、


また一説には、小早川隆景の家臣であった瀧権右衛門に仕えて

200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮していたところを、

豊臣秀次の家臣である木村重茲の小姓達があわれに思い、

衣類を揃えてやって次の雇先加藤氏に口添えしたという話も残っております。



天正18年から天正20年の間に、加藤嘉明に召し抱えられたと推察されます。

朝鮮の役では、漆川梁海戦で、敵の番船三艘を8名で乗っ取るという手柄も上げています。


戦役後、1000石の知行をもらう鉄砲大将に出世し、

その時に地位に相応しく、塙団右衛門直之と改名したといわれております。



関ヶ原の戦いの時に、鉄砲大将を任されながら、

命令を無視して勝手に足軽を出撃させたため嘉明の勘気を被り、

嘉明に叱責され、これに憤慨した団右衛門は、


「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎

(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を、

書院の大床に張りつけると、禄を捨てて出奔したそうです。


一方、この漢詩を見た嘉明も激怒し、

奉公構を出して、諸侯が直之を雇うのを妨害したとされています。


なお、一説では、嘉明が罪人の捕殺を塙団右衛門に命じた際に、

団右衛門は寒い日であったので斬り合いの最中に

悠然と火にあたって暖を取っていたとの理由で、


団右衛門の知行は1000石に留まり、

これに不満を持った団右衛門は出奔したのであるという話もあります。



その後団右衛門は、小早川秀秋に召し抱えられ、

直之は1000石の知行で鉄砲大将となりました。


慶長7年(1602年)10月の秀秋の死去により主家が断絶して、浪人となるも、

徳川家康の子息である松平薩摩守忠吉に仕えたが、

こちらも慶長12年(1607年)3月に死去して断絶し、再度浪人することになった。


その後、福島正則が馬廻として召し抱えて1000石の知行を与えていましたが、

名古屋城築城の際(慶長14年)に、

嘉明が正則に直に抗議して奉公構を守るように迫ったために、罷免され手しまいます。



この様な経緯からでしょうか、団右衛門は任官を諦めて、

妙心寺の大龍和尚のもとに身を寄せて、

一時期は剃髪して仏門に入って「鉄牛」を名乗りますが、

刀脇差しを帯びた姿で托鉢をして檀家の不興を買っております。



慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まると、団右衛門は還俗し、

浪人衆の1人として大将大野治房の組に預けられます。


和議が迫った頃、志願して夜襲の許可を得て、

11月17日、団右衛門は米田監物と共に蜂須賀至鎮の陣に夜襲をし、

その家臣中村右近を討ち取るなど戦功をあげております。


この戦いを一般的には

本町橋の夜戦と呼んでおります。


その際、団右衛門は本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、

士卒に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせたそうです。

これは嘉明に対して自分には将帥の才もあることを示すためだったといわれております。




翌年の大坂夏の陣では部将の1人に任じられます。

緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣し、


4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、

仲が悪かった先陣の岡部大学と競い合って突出し、

見方を大混乱に陥れてしまいます。


団右衛門は浅野家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、

および横井平左衛門(上田重安の家人)らと交戦しますが。


田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られたとも、

亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったともいわれております。






























小手 伸也(こて しんや)さんのご紹介です。













小手 伸也2.jpg
引用:Yahoo!検索













小手 伸也さんは、俳優、声優、作家、演出家とマルチな活躍をされている方です。

フジテレビのドラマ「HERO」では、現場リポーター役として出演されていましたので

「あっ!あの人」とうなづかれる方もいらっしゃらるのではないでしょうか。


また、『遊戯王5D's』など、声優さんとしてテレビアニメでお馴染みの方も

多いかと思われます。


早稲田大学教育学部のご出身で、

同大学内の演劇サークル、早稲田大学演劇倶楽部に所属後、

劇団innerchildを旗揚げし、主宰されております。


心理学や神話に特化した劇作を得意とされ、

日本神話、特に古事記に関する造詣が深くお持ちの方です。

ご自身の作風と、俳優としてのギャップが激しいことでお馴染みです。











小手伸也 真田丸.jpg
引用:Yahoo!検索



本名:小手伸也

生年月日:1973年12月25日(42歳)

出生地:日本・神奈川県

身長:177cm

血液型:B型

ジャンル:俳優・声優・作家・演出家



事務所:(株)オフィスPSC
http://office-psc.com/


ご自身のツイッターです。
https://twitter.com/KOTEshinya










豪傑として名を馳せた塙 団右衛門を

小手さんはどのようの演じられるのでしょうか。

今から、楽しみでなりません。










以上、「たか」と小手伸也さんについて

お伝えさせて頂きました。


今回もご覧頂き、ありがとうございました。











真田丸 感想 39話「歳月」のtwitterのつぶやきがオモシロい! [真田丸]






39話「歳月」のtwitterのつぶやきがオモシロい!







真田丸39話の視聴率は16.6%!


9月26日から10月2日までの


週間視聴率ランキングでも4位と好調のようです。



今回はその人気の秘密を


皆様のtwittwerのつぶやきから


抜粋させて頂きました。






























































































































































皆様のつぶやきは、


「真田丸愛」に満ち溢れていますね


毎回読ませて頂いて、オモシロいですね。



これからも皆様のオモシロいつぶやきを


沢山の方々に見て頂けたら


こんなにも嬉しい事はありません。



以上、皆様のtwitterのつぶやきついて


今回はお伝えさせて頂きました。






















今回もご覧頂き、ありがとうございました。











真田丸 40話 ネタバレ 閲覧注意!  [真田丸]


















これからが、真田丸の本番です!











真田丸 信繁ポスター.jpg
引用:Yahoo!検索














真田丸も遂に40話を数え,


佳境に入ってきました。


今回はその重要な40話のネタバレです。















ここから先はネタバレになります。閲覧注意です!









何事もなく平和な暮らしを送っていた信繁ですが、

突如現れたのは元宇喜多秀家の家老であった明石全登でした。

その時信繁は、警戒しつつも耳を傾けます。


そして、その内容とは驚くべきものだったのです。

明石はこう告げます。

大坂城で徳川家康を戦ってもらいたいと懇願するのです。


信繁はその懇願に断ってしまいます。

ですが心中穏やかではありません。

信繁の心は大きく揺らぎます。




明石全登(あかし てるずみ)とは

大阪冬の陣の五浪人衆の1人に数えられる主要人物です。


明石は、関ヶ原の合戦に参加しております。

西軍に味方した主家・宇喜多秀家が没落して浪人となりますが、

熱心なキリシタンになっていたために

黒田官兵衛に乞われ、その息子である黒田長政の家臣となります。


しかし、官兵衛の死後、黒田長政が家康の命により、

キリスト教を禁じたため、明石は、追放され再び浪人となります。


明石は、徳川家康と戦うために豊臣秀頼が

関ヶ原の合戦で大量に発生した浪人を集めたうちの1人でした。


このとき豊臣秀頼がキリスト教の信仰を許可したので、

明石はバテレン追放令に苦しんでいたキリスト教徒2000人を率いて

大阪城に入城していたのです。


明石が信繁のもとに現れたのは、

信繁とも知り合いであることから、

秀頼から、信繁説得の使者に選ばれたのでしょうね。




家康は豊臣家を攻める口実を探していましたが

1614年(慶長19年)10月1日に、方広寺鐘銘事件をきっかけに、

豊臣討伐を全国の大名に発令します。


それに対し、秀頼は、豊臣秀吉恩顧の武将に呼びかけますが、

既に時代は徳川の世になってしまったため、

大阪城に駆けつけた大名は皆無だったのです。




信繁は大坂への入城を拒みますが、

豊臣秀頼と茶々が苦境に立たされていることを知り、

悩み続けます。


きりや正室の春は、信繁が大阪城に入ることに

やぶさかではありません。

ふたりの言葉が鍵となってくることは間違いありません。


そして信繁の前にある人物が現れます。

果たしてその人物とは誰なのか?!

















一世一代の決断を迫られた信繁は、

息子の大助を呼び、なんとくじを引けと迫るのです。

この話しどこかで聞いたような気がしますが・・・。



秀頼の使いは、信繁に対しこのような条件を出します。

支度金として、黄金200枚、銀30貫目与え

信州勢150人の他に500人の兵を預ける事を提示し、


さらには、その恩賞として50万石を与え、

軍勢5000の大将に任命すると約束したとの事です。

さすがの申し出に信繁は、喜んで承諾したといわれております。





そして今回の題名は「幸村」です。

ここにも注目してご覧になってください。

どうしてここで、「幸村」なのかが、明らかになります!









以上、40話のネタバレを少しだけ、掲載させて頂きました。
























今回もご覧頂き、ありがとうございました。







真田丸 キャスト お通は稀代の才女で、謎多き人物。 [真田丸]





稀代の才女、お通謎多き人物。













益々好評の、真田丸ですが、


今回は謎多き人物「お通」を


取り上げたいと思います。













真田丸では八木亜希子さんが演じていらっしゃいます。



真田丸お通2.jpg
引用:Yahoo!検索





八木亜希子さんは、元フジテレビアナウンサーですね。

ご存知の方も多いかとも思います。


八木さん自身、大河ドラマは初出演。

その艶やかさに、早くも話題が沸騰中です。


今後の放送では、悩める信之の心を癒し

特別な存在となっていくだけに


これからの八木さんの演技が

おおいに注目されるところですね。










真田丸お通.jpg
引用:Yahoo!検索













稀代の才女、「お通」とはどのような人物だったのか?












お通は、小野 お通(おの の おつう、)と呼ばれることが多いようです。

生没年は良く分かっておらず、謎多き人物です。


お通が活躍されたとされるのが、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてです。

浄瑠璃の嚆矢(こうし) 『十二段草子』の作者とされてきましたが

その信憑性は疑われています。


阿通、於通とも書き、「おづう」とも読む説もあります。





お通は、詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといいます。


その出自や経歴については諸説あります。

生年は1568年(永禄10年)とも言われ、

没年は1631年(寛永8年)とする説や、1616年(元和2年)とする説があります。


大日本史料によると、美濃国の地侍・小野正秀の娘で、淀殿に仕えたとされています。

あるいは美作国津山城の東、押入下村の岸本彦兵衛の娘とする説や、


九条稙通に和歌を学び、織田信長や豊臣秀吉、高台院に仕えたとする説、


豊臣秀次の家人・塩川志摩守の妻となり一女を儲けたのち離別し、

東福門院や新上東門院に仕えたとする説などがあります。


真田氏ゆかりの広徳寺に墓所があります。



お通は稀代希な才女であったといわれています。

寛永の三筆の一人である公家・近衛信尹に書を習ったとされ、

当代を代表する女筆、お通流と謳われたほどです。


醍醐花見短籍や歌仙手鑑が現存するほか、

柿本人丸画像や達磨図の自画賛ものが伝存しております。



絵小野お通.jpg

伝お通作:柿本人丸画像
引用:Yahoo!検索














真田丸でも描かれる事と思いますが、

信之はお通に思いを寄せていたのではという説が残っています。


信之の正室・小松姫はその事を承知していて、

「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と

お通を側室にするよう勧めたといわれております。


結局、信之はお通を側室に入れることはありませんでしたが、

お通の娘の宗鑑尼(そうかんに、? - 1679年・延宝7年12月18日没)は、

信之の次男で信濃国松代藩第2代藩主・真田信政の側室となり、信就を生んだそうです。



浄瑠璃の起源とされる『十二段草子』の作者にとされてきましたが、

浄瑠璃はお通の生前15世紀半ばには成立していたと見られ、

現在では、お通の作者説も否定されています。


また、『十二段草子』中編15本に曲節をつけた改作者とする説が、有力になったこともありますが、

不特定多数の手になる語り物の性質上、作者や改作者を特定することは疑問視されています。


近世初期、新興の浄瑠璃は賤しめられており、その対抗策として、

当時の権力者に近い才女であるのお通が

創作者に祭り上げられたと考えられております。














真田丸では信之とのロマンスも見られる!?







信之とは深い中だったとされるお通を

真田丸でも、ロマンティックに描かれるのでしょうか?


稀代の才女であり、心の拠り所であったお通に

信之が惹かれて行く姿を

是非とも、見てみたいものです。


信之とお通。果たしてこの二人の関係は

三谷幸喜さんはどのように描いていくのでしょうか?。











またひとつ、楽しみが増え、

真田丸のこれからの展開から、

ますます目が離さなくなりますね。





以上、お通に関して、お伝えさせて頂きました。













真田の郷へは、こちらが便利です。



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今回もご覧頂き、ありがとうございました。











真田丸 キャスト、秀頼役の中川大志さんが、メッチャ、イケメンでカッコイ~イ! [真田丸]



秀頼役の中川大志さんが、メッチャ、イケメンでカッコイ~イ!

















前回の38話では、成長した秀頼が登場しました。

この姿を見て、さすがの家康もビックリ!

メッチャ、イケメンでカッコイイ!!


しかも、文武両道に秀でていて、聡明。

家康が、秀頼と対面したあとに本多正信に漏らした言葉。

「あれが、本当に太閤の子か」


家康は危機感を覚えた事でしょう。

この聡明な青年が、いずれ徳川を窮地に陥れる。

そうなる前に、早めに手を打っておかないと。



などと思わせた秀頼を演じているのが

この方、中川大志さんです。


1中川大志.jpg
引用:Yahoo!検索




















皆さんのつぶやきを集めてみました。










































































































































[ぴかぴか(新しい)]キラキラと光る秀頼の中に、オーラは出まくり!。[ぴかぴか(新しい)]


家康は思わず頭を下げてしまいましたね。


家康はその姿に、秀吉と信長の面影を見たのでしょうか。











2豊臣秀頼.jpg
引用:Yahoo!検索
















イケメン俳優中川大志さんのご紹介です。













3中川大志.jpg
引用:Yahoo !検索









中川さんは、幼少期からジャズダンスを習い始めていたそうです。

小学4年生の時にスカウトされたそうで、小学5年生の時に現在の事務所

スターダストプロモーション に所属されました。



2009年7月、NHK『わたしが子どもだったころ』ので俳優デビューを飾ります。

また2010年10月には『半次郎』で映画デビューも果たします。


2011年5月29日の「ニコラミニミニ開放日」にて開催された「メンモ公開オーディション」に合格し、

2011年9月号から、そのイケメン振りを買われて

『nicola』(新潮社)からメンズモデルとして登場するようになります。





「大志(たいし)」という名前の由来は「少年よ大志を抱け」にちなんで名づけられたそうです。

趣味はカメラとギター。特技はりんごの皮むきだそうです。


好きなアーティストはゆず、スピッツ、back number、SEKAI NO OWARI、Mr.children。

好きなスポーツはバスケ、サッカー、スノースクート。

好きな芸人はさまぁ~ずだそうです。


好きな映画は『バックトゥーザフューチャー』。

好きな食べ物はラーメン、辛い物、焼肉。

子供の頃の夢はプロサッカー選手だったとか。


得意な教科は体育、音楽、国語、家庭科との事です。








生年月日:1998年6月14日(18歳)

出生地:日本の旗 日本・東京都

身長:178.5 cm

血液型:B型

職業:俳優・タレント

ジャンル:テレビドラマ、映画

活動期間:2008年 -

事務所:スターダストプロモーション
http://www.stardust.co.jp/




主な作品


テレビドラマ

『家政婦のミタ』

『夜行観覧車』

『水球ヤンキース』













こんなメッチャイケメンさんが真田丸で見れるとなれば

女性ファンは放っておかないでしょう。

[黒ハート]きっと、ハートを鷲づかみにされてしまいますよ!ご注意![黒ハート]













以上、メッチャ、イケメンでカッコイ~イ!

秀頼役の中川大志さんをお伝えさせて頂きました。














真田の郷へは、こちらが便利です。


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最後までご覧頂き、ありがとうございました。









「真田丸 」キャスト 昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて! [真田丸]



昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて![もうやだ~(悲しい顔)]









9月25日の真田丸の放送で

昌幸が、壮絶な最期を迎えました。


その波乱に満ちた人生を

皆さんが悲しんでいます。


今回は、38話「昌幸」を

取り上げたいと思います。













元気だった頃の昌幸パパ[もうやだ~(悲しい顔)]

4昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索













真田昌幸と言う人物をあらためて、調べてみました。






真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。


真田昌幸像.jpg
引用:Yahoo!検索














甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男です。

信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。

織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、

近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵されております。


かの有名な上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、

徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易されています。


軍記物や講談、小説などに登場したことで人気者となり、

現代では、戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られています。




誕生から武田家臣までの時代


天文16年(1547年)、真田幸隆(幸綱)の三男として誕生しております。

生誕月日はよく分かっていません。幼名を源五郎と称しております。


一説に天文14年(1545年)生まれとする説もあります。

ただしこちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、

少々信頼性には欠けているようです。


昌幸は三男であり、同母兄に信綱・昌輝がいたため、

生まれた時点で真田家の家督相続の権利はありませんでした。



天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、

武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わっております。


昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となります。

名も「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、

その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。


永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を妻に迎えています。

山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされていますが、

菊亭晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説があります。


初陣は『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、

足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われてます。

ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの確証はありません。

ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性もあります。


永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは

先陣の馬場信春への使番を務め、北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされています。


信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を見抜いていたそうです。

『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、

北条氏政が援軍を率いて箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張しました。


これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、

「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えたそうです。


諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかといぶかしげにしていると、

まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、

その両名が両眼であることがわかったと伝えられています。


この話に出てくる昌世がそうであるように、

昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、

父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけです。



元亀3年(1572年)10月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加していますが、

この時に昌幸は、浜松城に敗走した徳川家康らを

追撃・総攻撃すべきという意見に、反対されていわれてます。




武田勝頼の時代の昌幸


元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えております。

天正2年(1574年)には父・幸隆が死去しています。

この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいました。


しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、

昌幸は真田氏に復姓し、真田家の家督を相続しております。


これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったともいわれ、

主君である勝頼も、昌幸の復姓と家督相続を認めたとされております。


なお、武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、

武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようです。

所領に関してはあくまでも真田領のみの相続であったとかんがえられます。


家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、

あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、

本領と甲斐を往復する事を繰り返したようです。


当事の真田氏の本拠の展開は、戸石城を中心とした一帯だったようですが、

山城(詰の城)・寺院・市町などは必ずしもそうではなく、家臣の集住はほとんど見られないことから、


昌幸の支配領域では兵農分離は曖昧で、

在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、

上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を行ったようです。






















どうしても草刈さんと昌幸が重なって見えてしまいます。


・草刈真田昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索

















第二次真田合戦の真偽




昌幸は1600年7月から8月にかけて、豊臣系の大名(西軍)と書状での交信を繰り返しています。

ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、

昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されております。


石田三成が徳川を討つと決起したあと、真田氏に発給した書状のうち、

七月晦日付の昌幸充書状に、このようなものがあります。


「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、

沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、

この事から石田と上杉の仲介をしていたことがわかります。


そして徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、

9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始したとき、

昌幸はわずか2,000の兵力で篭城して迎え撃ったといわれています。


秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の降伏を勧告していますが、

昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら

土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発し、

秀忠軍を城攻めに集中させる作戦に成功しています。


昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、

信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、

同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させています。


このとき昌幸は、徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、

秀忠は城攻めに手を焼き、9月9日に小諸に撤退せざるを得なくなります。


このときの徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料であるにも関わらず

「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで伝えられているほどです。


そこへ8月29日付で中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ、

上田城攻略を諦めざるをなくなります。


この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れてしまい、

秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになります。

よって上田合戦は本戦遅参の原因ではないともいわれています。


ただ、一方で『真田家文書』では従軍していた信幸に対して

秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定である事を伝え、

小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してから

かなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している事も特筆すべき事です。


その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いても昌幸はすぐには降伏せずに、

海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して

上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁を出撃させています。


その攻撃は、夜討ちと朝駆けを繰り返したと言われております。

しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。








九度山に配流されてから最期まで。



2昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索



関ヶ原の戦後処理において、当初、徳川家康は

昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下します。

昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固め、諦めなかったそうです。


ですが東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、

高野山・九度山への蟄居の沙汰が下ります。


昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かいました。

昌幸の正室山手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、

高梨内記をはじめとする16人が同行しています。


昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、

家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。


なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して

「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と

無念の胸中を語ったとも伝わっています。


最初、高野山での昌幸の配所は1里ほどところにあるの細川という場所でありましたが、

しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わります。

これには信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、

冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われています。


なお、流人の身でありながら、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され、

家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。


昌幸の生活費に関してはかなり苦しく、国許の信之、関係の深かった蓮華定院、

また、和歌山藩主の浅野幸長からの援助でまかなっていました。


しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため

10年余の間に20余通の書状を出しているほどです。

このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、

親密な仲を維持していた事が伺えます。



ですが10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせました。

晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では


「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候、

ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」。

その心の内を吐露しております。



最晩年の昌幸は病気がちでした。信之に宛てた書状では

信之の病気平癒の祝言を述べると共に、自らも患っている事を伝えています。


また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、

気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、

さらに「大草臥」と繰り返しており、長い配流生活は年老いた昌幸を苦しめました。


そして最期は、信繁らに見守られ

慶長16年(1611年)6月4日、九度山で天寿を全うしております。

享年は65は67とも伝わっております。



1昌幸最期.jpg
引用:Yahoo!検索













「昌幸ロス」一色の記事を見つけました。







以下、引用:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160925-00000142-spnannex-ent


「真田丸」今度は最大級“昌幸ロス”一色 ネット号泣&感謝の声続々


NHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)は25日、第38話「昌幸」を放送。

主人公・真田信繁(堺雅人)の父で、知略軍略に優れた天才武将・真田昌幸の最期が描かれた。


俳優の草刈正雄(64)が戦国時代を楽しむかのような豪快で

飄々とした“ラテン系”キャラクターを第1話から熱演。


MVP級の存在感で作品を牽引しただけに、

SNS上は「真田丸」最大級のロス「昌幸ロス」が広がった。



インターネット上には、まずは「終盤の昌幸公のお言葉を正座して身を乗り出しながら聞き、

涙が膝に次々こぼれ落ちました」「昌幸パパロス確定。大泣きしました」などと

悲しみと昌幸ロスを嘆く声が続々。


そして「上田市民の誇り、昌幸公をここまで立派に演じてくださるなんて。

上田市民として草刈正雄さんに心から感謝します」

「昌幸パッパ、第1話からずっと楽しませてくれて、ありがとう」などと感謝と熱演を称える声が相次いだ。



 この日の放送は1601年から1611年まで九度山(和歌山)の幽閉生活が描かれた。

草刈は昌幸が白髪になり、老いる姿を体現。

最期は息子・信繁に打倒徳川の策を授けた。


高梨内記(中原丈雄)や佐助(藤井隆)きり(長澤まさみ)春(松岡茉優)ら皆が見守る中、

昌幸には馬のいななきが聞こえ「御屋形様!」と目を見開いた後、息絶えた。


 ネット上には「昌幸は最後まで信玄の幻影を追う一生だったんだなぁ」

「衣食住が足りて、特に仕事に煩わされることなく老後を暮らせると聞くと、

一見いい老後に思えるかもしれませんが、

昌幸はおそらく九度山で自分が生きているという実感が沸かない日々を送っていたんでしょうね。

彼は波乱に満ちた戦国時代を生き延びてきたんですから」

と昌幸の心情を思いやる声が続々と上がった。


 昌幸は「わしゃ決めたぞ、息子たち。わしゃ決めた!」(第2話)

「チキショー!なんで死んでしまうのかのう!信長めぇ!」(第5話)

「大博打の始まりじゃー!」(第6話)


「皆の衆、えらいことになった」(第16話)

「では、おのおの抜かりなく」(第13話、第36話、第37話)など数々の名台詞を残し、

熱く、時にはコミカルに暴れ回る姿は視聴者の心をわしづかみにし、愛された。


 草刈は「俳優人生ナンバーワンの作品、一番最高の役」と語るほどの思い入れがあり、

自身のクランクアップに際しても名残惜しく「(撮影現場に)ふら~っと遊びに来るかもしれないですね。

『通行人で出して』とか『百姓で出して』と。(脚本の)三谷(幸喜)さんはすぐに乗ってくれるかもしれない」と

お茶目に愛着を示していた。












そうですよ!昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて!

ああ、尽きる事のないこの悲しさ[もうやだ~(悲しい顔)]

最大のロスに、私も涙、涙でした。







草刈さん、今までの真田丸での名演技、忘れません。

ありがとうございました。













以上、「昌幸パパお願い!もう一度出てきて!」について、お伝えさせて頂きました。


















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最後までご覧頂き、ありがとうございました。












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