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「真田丸 」キャスト 昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて! [真田丸]



昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて![もうやだ~(悲しい顔)]









9月25日の真田丸の放送で

昌幸が、壮絶な最期を迎えました。


その波乱に満ちた人生を

皆さんが悲しんでいます。


今回は、38話「昌幸」を

取り上げたいと思います。













元気だった頃の昌幸パパ[もうやだ~(悲しい顔)]

4昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索













真田昌幸と言う人物をあらためて、調べてみました。






真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。


真田昌幸像.jpg
引用:Yahoo!検索














甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男です。

信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。

織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、

近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵されております。


かの有名な上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、

徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易されています。


軍記物や講談、小説などに登場したことで人気者となり、

現代では、戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られています。




誕生から武田家臣までの時代


天文16年(1547年)、真田幸隆(幸綱)の三男として誕生しております。

生誕月日はよく分かっていません。幼名を源五郎と称しております。


一説に天文14年(1545年)生まれとする説もあります。

ただしこちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、

少々信頼性には欠けているようです。


昌幸は三男であり、同母兄に信綱・昌輝がいたため、

生まれた時点で真田家の家督相続の権利はありませんでした。



天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、

武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わっております。


昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となります。

名も「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、

その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。


永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を妻に迎えています。

山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされていますが、

菊亭晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説があります。


初陣は『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、

足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われてます。

ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの確証はありません。

ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性もあります。


永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは

先陣の馬場信春への使番を務め、北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされています。


信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を見抜いていたそうです。

『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、

北条氏政が援軍を率いて箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張しました。


これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、

「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えたそうです。


諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかといぶかしげにしていると、

まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、

その両名が両眼であることがわかったと伝えられています。


この話に出てくる昌世がそうであるように、

昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、

父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけです。



元亀3年(1572年)10月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加していますが、

この時に昌幸は、浜松城に敗走した徳川家康らを

追撃・総攻撃すべきという意見に、反対されていわれてます。




武田勝頼の時代の昌幸


元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えております。

天正2年(1574年)には父・幸隆が死去しています。

この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいました。


しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、

昌幸は真田氏に復姓し、真田家の家督を相続しております。


これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったともいわれ、

主君である勝頼も、昌幸の復姓と家督相続を認めたとされております。


なお、武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、

武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようです。

所領に関してはあくまでも真田領のみの相続であったとかんがえられます。


家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、

あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、

本領と甲斐を往復する事を繰り返したようです。


当事の真田氏の本拠の展開は、戸石城を中心とした一帯だったようですが、

山城(詰の城)・寺院・市町などは必ずしもそうではなく、家臣の集住はほとんど見られないことから、


昌幸の支配領域では兵農分離は曖昧で、

在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、

上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を行ったようです。






















どうしても草刈さんと昌幸が重なって見えてしまいます。


・草刈真田昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索

















第二次真田合戦の真偽




昌幸は1600年7月から8月にかけて、豊臣系の大名(西軍)と書状での交信を繰り返しています。

ただ8月10日の書状を最後に交信は確認されておらず、

昌幸も大坂の西軍も戦備に追われていたものと推測されております。


石田三成が徳川を討つと決起したあと、真田氏に発給した書状のうち、

七月晦日付の昌幸充書状に、このようなものがあります。


「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、

沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、

この事から石田と上杉の仲介をしていたことがわかります。


そして徳川秀忠が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、

9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始したとき、

昌幸はわずか2,000の兵力で篭城して迎え撃ったといわれています。


秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の降伏を勧告していますが、

昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら

土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発し、

秀忠軍を城攻めに集中させる作戦に成功しています。


昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、

信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、

同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させています。


このとき昌幸は、徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、

秀忠は城攻めに手を焼き、9月9日に小諸に撤退せざるを得なくなります。


このときの徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料であるにも関わらず

「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで伝えられているほどです。


そこへ8月29日付で中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ、

上田城攻略を諦めざるをなくなります。


この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れてしまい、

秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになります。

よって上田合戦は本戦遅参の原因ではないともいわれています。


ただ、一方で『真田家文書』では従軍していた信幸に対して

秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定である事を伝え、

小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してから

かなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している事も特筆すべき事です。


その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いても昌幸はすぐには降伏せずに、

海津城主・森忠政の家臣である城代・井戸宇右衛門配下の兵の守る葛尾城に対して

上田城から9月18日と23日の2度に渡って信繁を出撃させています。


その攻撃は、夜討ちと朝駆けを繰り返したと言われております。

しかしながらもはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。








九度山に配流されてから最期まで。



2昌幸.jpg
引用:Yahoo!検索



関ヶ原の戦後処理において、当初、徳川家康は

昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下します。

昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固め、諦めなかったそうです。


ですが東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、

高野山・九度山への蟄居の沙汰が下ります。


昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かいました。

昌幸の正室山手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、

高梨内記をはじめとする16人が同行しています。


昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、

家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。


なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して

「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と

無念の胸中を語ったとも伝わっています。


最初、高野山での昌幸の配所は1里ほどところにあるの細川という場所でありましたが、

しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わります。

これには信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、

冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われています。


なお、流人の身でありながら、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され、

家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。


昌幸の生活費に関してはかなり苦しく、国許の信之、関係の深かった蓮華定院、

また、和歌山藩主の浅野幸長からの援助でまかなっていました。


しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため

10年余の間に20余通の書状を出しているほどです。

このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、

親密な仲を維持していた事が伺えます。



ですが10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせました。

晩年の3月25日付(年次不明)の信之宛書状では


「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候、

ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」。

その心の内を吐露しております。



最晩年の昌幸は病気がちでした。信之に宛てた書状では

信之の病気平癒の祝言を述べると共に、自らも患っている事を伝えています。


また書状では「此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、

気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、

さらに「大草臥」と繰り返しており、長い配流生活は年老いた昌幸を苦しめました。


そして最期は、信繁らに見守られ

慶長16年(1611年)6月4日、九度山で天寿を全うしております。

享年は65は67とも伝わっております。



1昌幸最期.jpg
引用:Yahoo!検索













「昌幸ロス」一色の記事を見つけました。







以下、引用:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160925-00000142-spnannex-ent


「真田丸」今度は最大級“昌幸ロス”一色 ネット号泣&感謝の声続々


NHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)は25日、第38話「昌幸」を放送。

主人公・真田信繁(堺雅人)の父で、知略軍略に優れた天才武将・真田昌幸の最期が描かれた。


俳優の草刈正雄(64)が戦国時代を楽しむかのような豪快で

飄々とした“ラテン系”キャラクターを第1話から熱演。


MVP級の存在感で作品を牽引しただけに、

SNS上は「真田丸」最大級のロス「昌幸ロス」が広がった。



インターネット上には、まずは「終盤の昌幸公のお言葉を正座して身を乗り出しながら聞き、

涙が膝に次々こぼれ落ちました」「昌幸パパロス確定。大泣きしました」などと

悲しみと昌幸ロスを嘆く声が続々。


そして「上田市民の誇り、昌幸公をここまで立派に演じてくださるなんて。

上田市民として草刈正雄さんに心から感謝します」

「昌幸パッパ、第1話からずっと楽しませてくれて、ありがとう」などと感謝と熱演を称える声が相次いだ。



 この日の放送は1601年から1611年まで九度山(和歌山)の幽閉生活が描かれた。

草刈は昌幸が白髪になり、老いる姿を体現。

最期は息子・信繁に打倒徳川の策を授けた。


高梨内記(中原丈雄)や佐助(藤井隆)きり(長澤まさみ)春(松岡茉優)ら皆が見守る中、

昌幸には馬のいななきが聞こえ「御屋形様!」と目を見開いた後、息絶えた。


 ネット上には「昌幸は最後まで信玄の幻影を追う一生だったんだなぁ」

「衣食住が足りて、特に仕事に煩わされることなく老後を暮らせると聞くと、

一見いい老後に思えるかもしれませんが、

昌幸はおそらく九度山で自分が生きているという実感が沸かない日々を送っていたんでしょうね。

彼は波乱に満ちた戦国時代を生き延びてきたんですから」

と昌幸の心情を思いやる声が続々と上がった。


 昌幸は「わしゃ決めたぞ、息子たち。わしゃ決めた!」(第2話)

「チキショー!なんで死んでしまうのかのう!信長めぇ!」(第5話)

「大博打の始まりじゃー!」(第6話)


「皆の衆、えらいことになった」(第16話)

「では、おのおの抜かりなく」(第13話、第36話、第37話)など数々の名台詞を残し、

熱く、時にはコミカルに暴れ回る姿は視聴者の心をわしづかみにし、愛された。


 草刈は「俳優人生ナンバーワンの作品、一番最高の役」と語るほどの思い入れがあり、

自身のクランクアップに際しても名残惜しく「(撮影現場に)ふら~っと遊びに来るかもしれないですね。

『通行人で出して』とか『百姓で出して』と。(脚本の)三谷(幸喜)さんはすぐに乗ってくれるかもしれない」と

お茶目に愛着を示していた。












そうですよ!昌幸パパ!お願い!もう一度出てきて!

ああ、尽きる事のないこの悲しさ[もうやだ~(悲しい顔)]

最大のロスに、私も涙、涙でした。







草刈さん、今までの真田丸での名演技、忘れません。

ありがとうございました。













以上、「昌幸パパお願い!もう一度出てきて!」について、お伝えさせて頂きました。


















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最後までご覧頂き、ありがとうございました。












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